🧱 改革の背景①―田沼政治の終焉と政治的不信
📝 はじめに
本記事では、寛政の改革がなぜ「田沼政治への反動」として開始されたのかを整理する。 18世紀後半の幕府政治は、経済政策の方向転換と社会不安の拡大が同時進行する中で、政治への信頼そのものが揺らぐ局面に直面していた。その帰結として登場したのが、松平定信による「清廉な政治」を掲げた寛政の改革である。
💼 田沼意次政権の評価
―重商主義政策と「賄賂政治」批判
田沼意次は、18世紀中葉から後半にかけて老中として幕政の中心を担い、従来の年貢中心主義から商業・流通を重視する政策へと大きく舵を切った。
主な特徴は以下の通りである。
- 株仲間の公認と運上・冥加の徴収
- 鉱山開発や専売制による収入拡大
- 蝦夷地開発構想など、積極的な経済介入
これらは近代的視点から見れば合理的な財政拡張策とも評価できるが、当時の政治文化の中では別の受け止め方をされた。
田沼政治は「市場を通じた税外収入の拡大」を狙った点で、江戸幕府としては例外的に積極的な経済成長志向を持っていた。
しかし、株仲間公認を巡る金銭の授受や人事を通じて、 「賄賂によって政治が歪められている」 という批判が武士・庶民の双方に広がっていく。
🌪️ 天明の大飢饉と政治責任論
1780年代に発生した天明の大飢饉は、冷害・火山噴火・疫病が重なった未曾有の災害であった。 この危機の中で、田沼政権は有効な救済策を打ち出せなかったと認識される。
- 米価の高騰と買い占め
- 都市部での餓死・困窮者の増加
- 農村での逃散・荒廃
こうした事態は、単なる天災ではなく、 「政治が正しく行われていれば防げたのではないか」 という責任論へと転化していった。
当時の認識では、天変地異は為政者の徳の欠如を示す兆候と理解されることが多く、災害は即座に政治評価へ結び付けられた。
🏯 幕府権威の動揺
田沼意次の失脚(1786年)は、単なる政権交代ではなく、 幕府中枢に対する信頼の崩れを象徴していた。
- 老中専制への反発
- 武士層内部の規律意識の低下
- 「幕府は公正である」という前提の崩壊
特に、賄賂や私益追求のイメージは、 幕府が掲げてきた武家政権としての道徳的正統性を大きく傷つけた。
🧼 「清廉な政治」への社会的要請
こうした状況の中で広がったのが、 倹約・規律・道徳を重んじる政治への回帰要求である。
- 派手な経済政策への反省
- 武士の倫理回復への期待
- 「原点に戻る」政治への志向
これは単なる保守反動ではなく、 崩れかけた秩序を立て直すための社会的合意でもあった。
寛政の改革は、新しい政策を打ち出す改革というより、失われた信頼を回復するための再規範化として始まった点に特徴がある。
🔎 小まとめ
- 田沼政治は経済合理性を持ちながらも、政治文化との乖離が大きかった
- 天明の大飢饉は、天災を政治責任へと転化させた
- 幕府の道徳的権威が揺らぎ、「清廉な政治」が強く求められた
- 寛政の改革は、この政治的不信への回答として登場した
次の記事では、こうした政治的不信が社会構造の崩れとどのように結び付いていたのかを、天明の大飢饉の実態から掘り下げる。