🏙️ ③ 高度経済成長と「空虚」の文学(1960年代)
🏙️ はじめに
本章では、1960年代を中心とする高度経済成長期の文学を扱う。 戦争は終わり、民主主義は制度として定着し、社会は目に見えて豊かになった。 しかし文学が捉えたのは、充足ではなく、むしろ拡大する違和感と空虚であった。
この時代の文学は、 「もう戦後ではない」と言われ始めた社会に、なお残り続ける戦後性を可視化する。
📈 戦争は終わったが、意味は回復しない
高度経済成長は、生活水準を大きく引き上げた。
- 食糧難の解消
- 都市インフラの整備
- 大衆消費社会の成立
だが、文学は一貫して問い続ける。 「では、人は何のために生きているのか」 と。
戦争という極限的な意味付けが消えたあと、 経済成長は「目的」ではなく「手段」のまま肥大化していく。
この時代の不安は、欠乏ではなく過剰の中で生じる。
🏢 経済成長と人間の乖離
1960年代文学に共通するのは、 社会システムと個人感覚のズレである。
- 会社員としての役割
- 家族制度としての安定
- 都市生活の合理性
それらは「正しい生き方」として提示されるが、 登場人物たちはしばしば、そこに自分の実感を見いだせない。
戦後民主主義が掲げた主体は、 高度経済成長の中で、 組織や役割に回収されていく存在として描かれる。
ここでの疎外は、抑圧ではなく順応の結果として生じる。
🏙️ 家族・会社・都市の違和感
この時代の文学は、 日常的な空間そのものを不穏なものとして描く。
- 家族は安定装置であると同時に、逃げ場のなさを生む
- 会社は生活を支えるが、人格を希薄化させる
- 都市は便利だが、匿名性と孤独を拡大する
戦争の瓦礫は消えたが、 精神的な廃墟は形を変えて存続している。
戦後の「復興」は、必ずしも内面の再建を伴わなかった。
📚 代表作家・作品の位置づけ
沈黙(遠藤周作)
- 信仰の沈黙と神の不在
- 苦しみの意味が与えられない世界
- 成功や合理性とは無縁の倫理的試練
『沈黙』は、 高度経済成長という現世的価値観の外側から、 「意味が回復しない世界」を極限まで突き詰めた作品である。
宗教小説でありながら、これは戦後日本社会全体への問いでもある。
個人的な体験(大江健三郎)
- 障害を持つ子の誕生という極私的事件
- 逃避と責任の間で揺れる主体
- 社会の成功モデルから逸脱する生
大江文学は、 高度経済成長が想定しない生を描くことで、 「正常」「幸福」という基準の脆さを暴き出す。
ここでの主体は、社会的成功から意図的に外される。
雪国(川端康成・戦後的読解)
- 美の持続と虚無
- 戦前的文体の存続
- 成長や進歩とは無関係な時間感覚
『雪国』は戦前作品だが、 戦後に読み継がれる中で、 進歩史観に回収されない文学の可能性を示した。
川端は、高度経済成長の外部に静かな抵抗線を引いた。
🏙️ 本章の位置づけ
1960年代文学は、 戦後文学が「社会の成功」と距離を取り始めた局面である。
戦争の傷は癒えたかに見えながら、 それは空虚・疎外・意味の欠如として再出現する。
👉 次章では、 この空虚が大衆化・多様化の中でどのように拡散し、 文学そのものが一つの中心を失っていく過程を扱う。